右ポケットにスマホの振動を感じた。今は月曜2限のゼミ中だ。
僕は先生に見つからないよう、机の陰でこっそりとスマホを取り出し、膝の上に置いた。
神様、仏様、人事様、お願いします……僕は祈るような気持ちで画面をタップした。
慎重に検討を重ねました結果、この度は「小林亮」さんのご希望には添えないこととなりました。「小林亮」さんの今後のご活躍を心よりお祈り申しあげます
まただ。これで一体何社目だろう。
30社を超えた頃から、僕は何社に落ちたか数えるのをやめた。現実を直視すると気が滅入る。
ありきたりな文面にも飽き飽きしていた。名前を文中に入れて、一人一人と向き合っている感を演出しているつもりだろうが、パソコンのプログラムが名前を自動入力しているのは丸分かりだ。
それに、「慎重に検討」などといい加減なことを書きやがって。
就活生を不採用にすることなんて、お弁当の検品作業で、歪なブロッコリーを取り除く程度にしか思っていないくせに。
僕はいつになく苛立っていた。
実は、この会社には結構手ごたえを感じていたのだ。
面接でも、若い人事の女性と服のブランドのことで随分と盛り上がった。何なら、ちょっと好きになっていた。またお話しましょうねって言ったじゃないか……。
でも大丈夫。
悪い結果だって当然予想していた。
後でがっかりしないために、自分の心に保険をかけることだけは、どんどん上手くなっていた。
僕は周囲に何も悟られないよう、無表情でスマホをポケットに戻した。
今日は2016年の10月3日。6月に日系大手企業が内々定を出し始めてから4ヶ月が経つ。
ゼミには4回生の同期が15人いるのだが、内定が未だ一つもないのは僕だけだった。皆は一昨日内定式があったらしい。
ゼミ前の休み時間には、内定者の同期がどうのこうのと盛り上がっていた。内定先が取引関係にあるゼミ生同士で、商談の真似事なんてしているのも腹が立つ。
何が御社弊社だ。でも実はすごく羨ましい。
ゼミの時間が終わると、僕は足早に教室を出た。
ゼミ後の昼休みは皆で食堂にいくのが慣例だったが、今日はそんな気分にはなれない。
僕は一人、百年記念館に立ち寄った。
僕だけの秘密基地、なんて大げさなものではないが、心が晴れないときはここに来るのが1回生からの習慣だった。
階段に腰かけ六甲山下に広がる一大パノラマを眺めながら僕は思った。
この風景の中では、日々何十万という人達が働いている。
中には、一瞬で億を稼ぐような凄い人もいるのだろう。
でも、ほとんどは普通の人だ。
普通の人が普通に働いている。
それなのになぜ、僕にはその普通のことが出来ないのだろう。
別にスーパスターになりたいと言っているわけじゃない。起業したいとも言っていない。仕事をする。ただそれだけのことがどうしてこんなに難しいのだ。
僕は社会の歯車にすらなれないのだろうか……。
その瞬間だった。ここ数ヶ月間、何度も頭によぎっては打ち消していた考えが一つの決心として固まった。
もう今年はやめよう。
就職留年して、来年もう一度やり直そう。
夏が終わったとはいえ、まだ残暑は残る。
じっと座っていると、汗でワイシャツが背中に張り付いていた。
今日の午後は、京都で開催される中小企業の合同説明会に参加しようと思っていたが、それも中止だ。
僕は左手でネクタイを緩めた。
それにしても、今日は10月だというのに蒸し暑い。僕は耐えかね、ビジネスバッグから扇子を取り出した。
この扇子はただの扇子ではない。三国志の英雄、諸葛孔明の扇子をイメージしたド派手な一品だ。
三国志マニアの母が中国土産に買ってきたのである。
ちなみに、僕の「亮」という名前は、諸葛孔明の字「亮」に由来する。
「この扇子にはね、孔明様のものと同じ鳥の羽が使われているの。
これを肌身離さず持っておきなさい。きっと孔明様があなたの力になってくれるから。就活頑張りなさいね」
母はそう言って、僕のビジネスバッグに扇子をねじ込んだ。半年前のことだ。
ありがた迷惑だと思ったけれど、案外、説明会や面接で話のネタになるので、僕は就活中ずっとこの扇子を持っていた。
そしていつしか本当に御守りのように感じるようになった。