うつくしくない(いくつかの)ものもの
「世界は欲しいモノにあふれてる」という素敵なタイトルのテレビ番組がある。 実際、この世の中には数えきれないほど沢山の素敵なものがある。 しかし、その素敵なものと自分が出会うというのは案外に難しいものだ。 自分の持つ素敵のセンサーのようなものを自分で磨いて、 敏感にしておかないと欲しいものはすぐ別の人へと渡ってしまう。
ではどうすれば自分の考える素敵なもの、美的感覚というのを正しく把握できるのだろうか、自分は何が好きなのか。 今回の記事はこれについて少し考えてみようと思う。
美的感覚を正確に把握するためには、自分の好きなものについて調べれば分かるじゃないかと考える人もいるかもしれない。 これは間違ってはいないがかなり時間のかかってしまうやり方であると考える。 筆者のイメージでは、美的感覚は等高線のように別れており、中心に行けば行くほど自分の好みで、 そこに入ってくるものも少なくなってくる。そしてだんだんと裾野が広がってきて、 最終的に自分の美的感覚に適合されなくなるといったものである。 しかし、何もない状況で自分の美的感覚の中心などを見つけるのは困難であるため、 今回自分がおすすめするのは「嫌いなものを考える」という方法である。
故・伊丹十三は「美的感覚は嫌悪の集積である。」と言った。その通りであろう。 嫌いなものどこか一箇所に集めた時、そこ以外にあるものはすなわち自分の美的感覚に適うものであるはず。 では、実践してみよう!
カニとカニカマ、ニセモノの品格

筆者は何が嫌いか。
Xなどで自分を実際より大きく見せる輩が嫌いだ。 例えば、地方出身で京大などに入って京都通を気取ったり、奇人のふりをしたりということ。
嘘をつかれるのも好きではない。食品の産地偽装などのニュースを見るとなんとも怒りが湧いてくる。
汚いものも好きではない。「よごれている」ということではなく「きたならしい」もののこと。
などなど嫌いなものもまだ出てはくるが、このページがあまり美しくないものとなるので記すのはこの辺りにしておく。
こうやって嫌いなものを考えるとどうやら自分は「ニセモノ」が嫌いらしいということに気づく。 しかしニセモノにも色々ある。例えばカニカマなどはカニのニセモノのように思えるが、素敵なもののように思う。 しかしブランド物のコピー品などは全く嫌いであるし、この違いはなんだろうか。 おそらく、そのモノがあくまで自我を保ち、本物にリスペクトを持って近づこうとしているか否かにそこの差があると思う。 フェイク京大生や、ブランドのコピー品は、すでに人気のあるものを真似することでなんの努力もなしに 結果を得ようとしているところが「きたならしい」のであり、そこが嫌いなのであろう。 それに比べてカニカマの健気なこと!カニカマはけっして自分のことをカニだとは主張しない。 カマボコでありながらカニという高級食材になんとか近づこうと日々努力する。その結果、 カニカマはカニにはなれなかったが、「カニカマ」というかけがえのない自分を作り上げることができたのだ。
話がカニカマ中心のようになってしまったが、ここで本題に戻す。 ここまで嫌いなものを考えた結果、筆者はニセモノが嫌いだということがわかった。 その共通点を探ることで、努力とリスペクトにかけたモノが嫌いであり、 逆に言えばその二つの揃ったモノが好きだという結論にまで辿り着くことができた。 ここからはその結論を等高線の一番狭い円として、色々なものものを判断していけるだろう。 皆様もぜひ、嫌いなものを考える時間をとってはいかがだろうか。きっと愉しい時間になることだろうと思う。




